『七年目の浮気』と『大アマゾンの半魚人』

『七年目の浮気』と『大アマゾンの半魚人』

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『七年目の浮気』(一九五五年 アメリカ)

監督 ビリー・ワイルダー

出演 トム・イーウェル マリリン・モンロー

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『大アマゾンの半魚人』(一九五四年 アメリカ)

監督 ジャック・アーノルド

出演 リチャード・カールソン ジュリー・アダムス

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 マリリン・モンローの映画で、もっとも「マリリン・モンロー」らしい作品は、『七年目の浮気』と『お熱いのがお好き』だと思う。どちらか一作、といわれれば、悩んだあと『七年目の浮気』とこたえるような気がする。マリリン・モンローのもっとも可愛らしい笑顔が撮られている。二作とも、監督はビリー・ワイルダービリー・ワイルダーという映画の天才によって、マリリン・モンローという「可愛らしさ」の素材が輝いている。この時期のマリリン・モンローの精神状態の不安定さと、撮影の困難さは、どの本にも記されているものの、映画では、それを一瞬でも、みることができない。明るくて、可愛らしくて、セクシーで、素直で、頭のよい、「ブロンドの美人」の、マリリン・モンローだけが映っている。ビリー・ワイルダーという監督の撮った、「マリリン・モンローという偶像」そのもののマリリン・モンロー。実際に、『七年目の浮気』では、マリリン・モンローが、あの「マリリン・モンロー」かもしれない、という冗談が語られている。

『七年目の浮気』は妻子が避暑旅行にでかけ、仕事と留守番をしているトム・イーウェルと、最新流行のエアコンがなく扇風機の熱風で我慢しているマリリン・モンローとの、どたばた喜劇。トム・イーウェルは奥さんと子供を大事にしているが、本意ではないものの、マリリン・モンローとあわよくばというふうな下心をわずかにもってもいる。マリリン・モンローは日々暑いので、ただただ素直にトム・イーウェル家の各部屋にあるエアコンに心惹かれて、泊りたいだけ。そんな話。

 ビリー・ワイルダーが、忍耐に忍耐を重ね、我慢と努力で撮った「マリリン・モンロー」ではあったとしても、しかしそれだけではない、マリリン・モンローも、天才ともいうべき、俳優だったと思う。ビリー・ワイルダーが『七年目の浮気』の前年に撮った『麗しのサブリナ』は、これ以上ないくらい「麗しい」オードリー・ヘプバーンを撮っているが、その『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘプバーンの演技と、『七年目の浮気』のマリリン・モンローの演技を比べてみると、まったくちがう。オードリー・ヘプバーンは役になりきって演技をしているが、マリリン・モンローは、しぜん、そのままである。なにも足していないようにみえる。ただそこで無邪気ににっこりとしている。どんなにオードリー・ヘプバーンが演技をみがいても、マリリン・モンローの一秒にも届かない。――と、思わせるように撮ったビリー・ワイルダーの底のない才を褒めるべきかもしれない。

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『七年目の浮気』といえば、なによりもラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を連想する人も多いが、俗なわたしは、ジャック・アーノルドの『大アマゾンの半魚人』が見たくなる。

『七年目の浮気』で、トム・イーウェルとマリリン・モンローが一緒に見にいった映画が『大アマゾンの半魚人』。見にゆく映画を『大アマゾンの半魚人』Creature from the Black Lagoonにしたのが、ビリー・ワイルダーという監督の搦め手からの感性。映画館からでたマリリン・モンローは、愉しそうに地下鉄の通風口から吹き上げてくる風で、涼むことになる。映画をみていなくても、だれもが、この場面を知っている。

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『大アマゾンの半魚人』を、半魚人の立場からみてみたい。半魚人は、アマゾン奥地、密林にある潟沼で平和に暮らしていた。あるとき、初めてみる「文明社会」に暮らす「学者」たちが、化石の調査にやってくる。「文明社会」に暮らす「学者」の若い女性は、煙草の吸殻を、美しい沼に投げ捨てるし、「文明社会」に暮らす「学者」たちは、半魚人の姿をみつけると、躊躇なく矢を放ち、銃で撃ち、棒でたたく。罠も仕掛ける。そうして、「文明社会」に暮らす「学者」たちは、沼に大量の毒をまく。

 半魚人を捕まえると、学問と研究とは捨てて、見世物で儲けようと、いそいで連れ帰ろうとする。半魚人はなんとか逃げるも、結局、銃で撃たれ、沼の深い淵へ沈んでゆく。

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 製作費の高い一流の「B級映画」なので、「着ぐるみ」(モンスター・スーツ)も往時としてはよくできているし、撮影も叮嚀に撮られている。俳優もうまい。モノクロの映像も美しい。ことさら、白い水着のジュリー・アダムスと半魚人が、沼の水面近くと、底の方で、息を合わせたかのように重なって泳ぐ場面は、どうやって撮影したのだろう、と思うほどに美しい。半魚人の憧れと片恋をバレエで見るような雰囲気だった。恐怖怪奇映画とは思えない。この水中で泳ぐ場面は、セドリック・ギボンズとジャック・コンウェイ監督による一九三四年の映画『ターザンの復讐』と驚くほど似ている。『ターザンの復讐』の水中場面もかぎりなく美しい。ジョニー・ワイズミュラーとモーリン・オサリヴァン。素朴な時代のアメリカ映画では自由だったのか、モーリン・オサリヴァンはあたりまえのように裸で泳いでいる。『大アマゾンの半魚人』のジュリー・アダムスは、水中では光の具合で裸にみえることもある白い水着をつかっている。

 わたしの場合は順序が逆で、先に『大アマゾンの半魚人』をみて、後から古い時代の『ターザンの復讐』をみている。そのため、『大アマゾンの半魚人』の場面が新鮮だった。蛇足の蛇足となるが、同じように、モーリン・オサリヴァンを見るより前に、モーリン・オサリヴァンの娘さんの方をよく知っていた。娘さんは、わたしらの世代にとっては、一九六〇年代後半から七〇年代の、銀幕でいちばん輝いていた女優である。

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「半魚人」というのは日本の秀逸な訳語で、元は「ギル・マン」、鰓を持った男、とよばれている。ユニバーサル映画が一九五四年に造った新しい「モンスター」だった。怪奇映画に力をそそいでいたユニバーサル映画は、半魚人をドラキュラや狼男やフランケンシュタインなどの系譜に位置づけていた。「着ぐるみ」の外見は、水を泳ぐミイラ男というふうだった。

 そのユニバーサル映画が一九九五年に撮ったケビン・レイノルズ監督の冒険活劇空想科学映画『ウォーターワールド』の主人公ケビン・コスナーは、「ミュータント」の役で、鰓や水掻きをもっている。水中を自由に泳ぐ。「着ぐるみ」はつけていないとはいえ、日本語のこれまでの慣例でいえば「半魚人」である。『大アマゾンの半魚人』の「モンスター」と、『ウォーターワールド』の主人公ケビン・コスナーは、身体の器官そのものはまったく同じなのだが、四十年たつと、「半魚人」もヒーローとして受けいられてくるのか、と思う。その分、ただ嫌われて排除された『大アマゾンの半魚人』の運命は悲しい。

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写真 ビリー・ワイルダー『七年目の浮気』

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写真 ジャック・アーノルド『大アマゾンの半魚人』の広告イメージ写真ではないか、と憶測する写真。『Film Fantastic』第二巻から引用。『大アマゾンの半魚人』は立体映画として公開されたので、映画館にゆくと、銀幕からこのように飛びだすように見えますよ、という煽り広告写真かと思う。整然とした観客の、驚きのない姿も愉しい。なお、映画では、この角度でジュリー・アダムスと半魚人が泳ぐ場面はない。わがやのDVDは、立体映画対応ではなく、ふつうの“平面映画”なので、誤解はあるかもしれないが。